人間のお医者さんと違って、なんとなくメルヘンっぽく思われているのか、スピリチャル的に思っている人が多いようです。

そのご期待には添えないことをはっきりお伝えします。
どっちかと言うと科学者なので、根拠のない疑似科学とは全く別物です。

たくさん説明したいことがあるのですが、このテーマでも少しずつ書いていこうと思います。

まず最初に、樹木医は「じゅもくい」と読みます。「じゅきい」ではありません。これは改めて説明しないといけないみたいですね。

そして定番のご質問
Q.1そういう資格があるのですか?
A.1あるんですよ。試験に合格しないと名乗ってはいけません。自称じゃないです。

公共の街路樹や保存樹木を扱いますし、自分で名乗るだけでは公共の仕事はさせてもらえないです。個人は特に縛りは無いと思いますが、無資格の人には樹木医的にそれはやってはいけないことをやっちゃう人がいるのでお気を付けください。
東京に出てきて驚いたのは、なんとかコンサルタント、という自称のお仕事がたくさんあるんですね。樹木医は惜しいことに私の代から財団法人認定になってしまいましたが、元々林野庁が作った資格です。受験資格には実務経験が必要だし、試験も結構難儀です。
この試験も皆さん、どんな想像をされるのか(笑)
私が試験に合格した時に、二級建築士を持っている当時友人だった女性が試験問題を見せてほしいというので見せたたところ、無言になって「ふーん。樹木医の試験って難しいんだね・・・。でも建築士の試験だって難しいのよ!」と何故か敵対される?かのような感想をいただきました(笑) おそらく、印象としては草花のお手入れ、害虫駆除などが中心に思っていたのかな?
試験の範囲は幅広くって、基本的な化学から生理生態、土壌や気象、環境問題、森林生態系、時事問題などなど樹を扱うのにベースとなる知識が必要とされるのですね。
最近では、金融コンサルタントの女性から「植木屋の現代版でしょ」と冷たい感じで定義されましたが、なんとなく近いようなそうでないような。彼女の言う植木屋さんって生産者さんならやってること全然違うし、造園建設業(実家がそうですが)ともちょっと違いますね。それぞれでカバーしきれない、より樹木に特化した仕事なんです。と同時に、それそれをつなぐという視点も必要とされてます。いずれにせよ、公的機関で認定されている資格職ってことです。

そして最大の謎樹木医は樹を話せるのか?
Q.2樹木医さんて樹と話せるんですよね?
A.2人間の言葉や超能力で話すわけじゃないです。樹の姿かたち、外見上に現れている様子から樹の状態を解析します。

これが、皆さんのロマンを壊すようで申し訳ないです。声、聞こえないんです。でも、例えばとある南国性の樹種の樹皮がカサカサで剥がれていて、その方位や土壌の様子から日焼けの可能性があるか?=熱いよー、とか。狭い植樹帯に根が絡まっていれば=苦しいよー、と言っていることにはなりそうです。ここのところは、樹木医それぞれの創造性とか表現力によるところが大きいと思います。
私はどちらかと言うと、置き換えて話すのは得意です。いろんな方にもっと樹を身近に感じてほしいから、情緒的にメッセージを発信したりすることも多いです。
しかし、根本的には、別に話したり、意識を投影したり、そんなことができるわけじゃないです。
いや、むしろ、樹木医というからには、そんな自分の主観を投影したらダメでしょ。
自分の思い込みで樹の状態を判断したりしたら大間違いの元です!
科学的エビデンスを元に診察していかないと、枯損という結果に如実に表れますからね。人みたいに、まあ、しょうがないか、と我慢したり、収めてくれたりはしないので。(笑)
私たちは、出ている症状をそのまま受け止めます。科学ってつまり、生の情報。鮮度の高い素材をそのまま食べるようなことです。パッケージを綺麗にしたり、物語を添えないと理解できないようじゃ治療が間に合いません。起きていることの現象を勝手に自分の解釈で置き換えないことです。本当に樹を救いたい!そう思えば思うほど、ちゃんとした勉強や知識が必要だと強く思います。

とあるスピリチュアルを名乗る人のブログに、神田川沿いのサクラが池に向かって枝が垂れているのを見て、「サクラって水が好きなのですね」と言っていましたが、これ、逆です。サクラは水はけが良い土地を好みます。川に枝が垂れているのは、密生していて空間がそちらにしか空いていないからです。樹木は少しでも光を求めて光合成をしたいのですから、その競争の結果、川の上に枝がしだれているんです。もし、サクラは水が好き、という情緒を優先したりしたらサクラにとってはいい迷惑です。それこそ可哀想。やめてください。

またある人は、「自分は武道をやっていて、練習の為に樹を蹴ることをやっていたが、樹は大きな存在だから蹴っても大丈夫なんだ。武道ではそういう風習があるのだ。駒沢公園の樹を蹴ったけど、20年経っても大丈夫だ」というご意見。
きっと、「なんてことを!樹が可哀想!蹴ったりしないで」と言った方がいいのかもしれませんが、職業上申し上げる言葉は「その道場の所有の樹ならお好きに蹴っても構わないと思いますが、公共の樹木に対する危害は広く都民の財産を脅かすことですので、器物損害になりますよ。そもそも、樹が本当に大丈夫なのかどうかは、証明できないでしょう?たまたま樹皮を損傷して腐朽するまでに至らなかっただけで、蹴ったという物理的な危害はあったのですから、何かしらの生育阻害は生じていますよ。閾値を超えなかっただけ。蹴る力が弱かっただけ。樹が大丈夫かどうかなんて主張するのは思い込みに過ぎないと思います」
です。
蹴っても大丈夫だというのは、そう思いたいからに過ぎないのではないでしょうか?
もし、世界中の武道をやっている人が一斉に樹を蹴り始めたら、社会問題になると思います。
何となく思い出したのは、闘犬を育成するのに、咬ませ犬、という役割の犬がいるということです。それに似ているような。これも当事者としては色々文化的に必要性を訴えているのだと思います。何かしらの大義が必要なのは人間だけです。樹はしゃべらないのに、勝手に代弁しないでほしいですね。超能力者なのでしょうか?それかもっと蹴って、大丈夫かどうかのデータを見せてほしいです。

樹を蹴れば、衝撃が加わって樹皮がはげる。剥げたところから腐朽菌が侵入する。樹を腐らせせて生育不良になる。空洞ができて力学的に弱くなる。いずれ枯れるか倒れるかもしれない。事実を見て樹木医は対処する。そういうことです。

しかし、色んな樹木や環境の病気やけがは、社会の問題が投影されてのことだと思いますので、心や倫理、色んな価値観を総合的に診ていくことは必須だと思っています。

樹木医の雑感、また徒然と書いていきたいと思います